私たちそれぞれは、なんらかの縁があって、あるところで暮らしている。いい時も悪い時も、いいところも悪いところもある。そして、そこで暮らす人々それぞれが、それぞれの日々の営みを繰り返すことによって、そこはかけがえのないところにもなる。このシリーズでは、暮らしの中でかけがえのないところを引き継いだり、新たに生み出したり、育てたり、次の世代につなげようとしている人たちのことを紹介していきたい。
沖永良部島(おきのえらぶじま)。奄美群島の南に位置し、与論島の次に沖縄県に近い島である。人口は約1万1300人。緩やかながら人口減少が止まらず、65歳以上の高齢者の割合は40%に迫ろうとしている(知名町:令和5年3月末現在39.5%、和泊町:令和2年36.3%)。このように、沖永良部島もまた、日本全国で共通の課題を抱える離島の一つである。その状況の中で、優しく、逞しく、楽しく、情に厚く、時に熱く、各々の暮らしを営み、次の世代に人生の喜びと誇りをつなげようとしている人たちの様子を、数回に分けて報告することにしよう。
楽しく遊び学ぶ場をつくる:三線教室を主催する川畑信一郎さん
「優遊ひろば」:楽しみながら共に学ぶ場をつくる
三線(さんしん)教室「川畑民謡研究所」を運営している川畑信一郎さん(60歳)は、2021年、退職金をつぎこんで、自宅の隣に「優遊ひろば(ゆうゆうひろば)」を建てた。建物の正面には「優遊ひろば」の大きな木彫り看板が掲げられている。

三線を披露する川畑信一郎さん 写真提供 徳貞彦氏

「優遊ひろば」外観:島の移動は車がかかせない。駐車場のスペースも十分だ。
デザインは自ら考え、業者によって彫られた文字に自らが色を塗って仕上げるほど、施設の名前にはこだわった。自分だけではなく、島の人々が「のんびり楽しめる場」にしたいという思いが込められている。それまでは実家で教室を開いていたが、町の中心地から離れたところにあり、街灯がほとんどないため夜になると真っ暗で、生徒さんたちの「怖い」という声も聞いていた。「優遊ひろば」は町の商店街から徒歩10分ほどの位置。生徒さんたちが通いやすくなるだろうとの思いがあった。
建物の中には壁の一面が鏡張りで、防音対策が施された20畳ほどの部屋が一室。ここで週3日ほど、夕方に三線教室を開いている。三線教室は、沖縄・奄美地方に伝統の、三線を奏でながら唄う、いわゆる弾き語りの教室である。現在25人いる生徒さんの年代は、下は小学2年生から上は80代のマダムまでと幅広い。地元の人もいれば、教員や病院の看護師などの“転勤族”もいる。親子で通う人もいる。中でも多いのは中高年女性だ。50代が7人、60代が6人、70代が4人。週1回~月2回ほどの個人レッスンを心待ちにして通ってきている。
「二足のわらじ」で三線を教えるようになるまで
川畑さんは、三線教室のほかに、日中はバスの運転手をしている。6年前に定年退職するまでは、わらじの片方は自衛官だった。二足のわらじで三線教室を運営するのは農協職員でもあった沖永良部島を代表する唄者である父親(故川畑先民氏)ゆずりだ。
ただ、すんなりと父の跡を継いだわけではないらしい。むしろ子供の頃は、こと演奏に関しては厳しい父に反抗して、三線から遠ざかっていた。三線が相棒になるのは高校を卒業して自衛官になってからのことだ。退官するまで、地元のほかに、山口、埼玉、島根、宮崎、硫黄島で任務にあたったが、赴任先にはいつも三線を持っていった。余興の折に、物心がつく前から慣れ親しみ、すっかり耳コピーしていた島唄や、流行りの曲をアレンジして弾き語るのだが、周囲からの評判がすこぶる良く、のめりこんでいったのだという。ただし、指導者として三線にかかわるようになったのは、2008年に父親が脳梗塞で倒れた後である。周囲に再三乞われた後の決断だった。その後、指導者の試験に合格するための練習を積んで、2018年に試験に合格してからは実家や公民館等で、本格的に二足のわらじで指導をするようになった。
「三線が弾けるのは自分の宝!」
生徒さんの一人、渡辺美津代(わたなべ みつよ)さんのレッスンを見学させていただいた後、お話を伺った。渡辺さんは「優遊ひろば」に通い始めてからまだ4か月ほど。今、三線にすっかりはまっている。昨年の春に最愛の夫を亡くし、精神的にまいっていた際に、若い頃に一時期習っていた三線をやってみようと思い立ち、友人に相談したのがひろばに通うきっかけだ。最近は5時頃に夕食を済ませたあと、三線の練習をするのが日課になっている。夜中の2時、3時に目が覚めたときにも、隣に人が住んでいないこともあり、音が軽減される忍び駒(しのびごま)を使って練習することもある。そして、レッスンがある日の午前中は、仲良し3人で自宅に集まって練習に励んでいる。
沖永良部島での日々の暮らしに溶け込んでいる三線のリズムについて、二人の会話が弾んだ。
渡辺さん「(沖)永良部の人たちは、与論の人ももちろんそうだけど昔から琉舞(琉球舞踊)の唱をね、子守唄みたいな感じだから。おばあちゃんたちにおんぶされながら、やっぱり聴いてたんだよねー、と思います」。
川畑さん「聴いてた。見てた。自分たちの小さい頃はみんな手作りで、それぞれが各集落で踊って。踊りの上手な方が誰かおって、それがずっと伝承されてるから。」実際、川畑さんの父は、本場沖縄の三線はニシキヘビの革がつかわれていて高価なため、革の代わりにビニール合羽や和紙を用いて手作りした三線を弾いていたという。「(沖永良部の文化は)琉球圏だから。自分たちで弾いて踊って、みたいな感じ。だから浜で、よくね。昔は三線を弾いてそれに合わせて踊ってとか、次々とね」。
渡辺さんの目下の目標は、例年秋に開催される町の「生涯学習フェスティバル」への出演だ。川畑民謡研究所の生徒さんたちが常連となっている晴れ舞台である。そのほかにも「五月祭」や「夏祭り」など研究所が常連の出番は季節ごとにある。
「三線が弾けるのは自分の宝」「あと10年、80歳になるまではできる」と渡辺さんは目を輝かせながら話してくださった。

なかなか上手く弾けないところでは、一旦唄だけにして節回しを身体で覚えてから三線を手にするように指導。その個所はあっという間に弾けるようになった。

お稽古仲間から先生とのツーショットを見せてもらい渡辺さんも欲しいということでパシャリ。
指導者として、演者として
生徒さんに、楽しみながら三線を学んでもらうことがモットーだと語る川畑さん。レッスン中も終始穏やかに指導する。上手くいって褒めるときだけでなく、上手くいかなかったときも、優しく「今度は○○に気をつけてやってみよっか」というふうに声をかける。話すペースもゆっくりだ。かつて行っていたグループレッスンを個人レッスンのみにしたのも、一人一人の技量やペースに合わせて学んでもらいたいからだ。父が沖永良部のシマウタを1、2、3の数字に書き起こした楽譜だけではなく、本場沖縄で使われている工工四(くんくんしー)表記の楽譜も使うのは、工工四の楽譜はインターネット上で容易に手に入るから。そこには“転勤族”の人たちが島を離れても三線を続けてほしいとの思いがある。出身の小学校での指導も続けたいと思っている。
一方、定年退職後は、琉球舞踊の音曲を担当する地謡(じうたい、じかた)を依頼されることも多くなった。大舞台での経験をすればするほど、地謡の奥深さと自らの未熟さを知るようになったという。「もっと練習してうまくなりたい」という思いが日に日に強くなっている。
川畑さんにとって「優遊ひろば」は、優しく遊ぶように三線を楽しんでもらう人を育む場であり、自身が高みを目指す学びの場でもある。

唄って踊れる「優遊ひろば」は琉球舞踊の練習場になったり、同窓会の打ち上げ会場になったりすることも。写真提供:田皆中同窓会辰巳会
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遠野賀子(とおの・がこ) 鹿児島県大島郡(徳之島)出身。東京・京都・新潟の私立大学の職員ならびに教員を経て現在フリーライター。これまで主にイタリアの若者へのキャリア支援や非営利組織・ボランティア活動等の動向を紹介してきた。著書:「イタリアの若者の起業と起業支援」(「開発工学」所収)、「非営利組織による社会的包摂と持続可能な社会づくり:イタリアの動向と課題」(『岐路に立つ欧州福祉レジーム』ナカニシヤ出版所収)など