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死を通して人間と動物の関係をあぶり出し 読者をモヤモヤさせる『生き物の死なせ方』

生物多様性の保全や、人間と生き物の共生が以前にも増して語られるようになっているなか、命あるものが必ず迎える“死”や“死体”に人が向き合う機会は確実に減少しています。一方、望むと望まざるとに関わらず、様々なかたちで人は生き物を死なせている。現代社会において、人間は生き物をどのように死なせているのか。生死に関わる人たちは、どのような思いでその現場の役割を果たしているのか。2025年2月に刊行された著書『生き物の死なせ方』でその真相に迫った、社会学部の渡邉悟史准教授にお話を伺いました。

生ではなく死にフォーカスした理由

————『生き物の死なせ方』を執筆されるまでの経緯や、これまで携わってこられた研究について教えてください。

渡邉:大学時代は社会学ではなく、政治学を専攻していました。大学院の修士課程あたりから農村社会学や人類学を学び始め、博士課程では政治思想史にも関心を広げながら、最終的には農村社会学に関する博士論文を執筆しました。
その後、見分を広げるために留学したチェコで、哲学者のジェームズ・メンチ氏と出会えたことも、『生き物の死なせ方』の執筆に大きく影響しています。彼は人間と動物の関係をテーマにしている哲学者で、アメリカやヨーロッパ圏をはじめ、世界的にそうした研究の流れがあることを教えてくれました。もともと私は日本の農村やコミュニティに関心がありましたが、彼との出会いを通じて、「人間と動物」という視点から日本社会を捉えることもできるのだと思い始めました。ちょうどその15年ほど前から、人類中心ではなく、人類とそれ以外の生き物が相互に影響し合いながら世界を築いているという「マルチスピーシーズ人類学」にも注目が集まっていました。メンチ先生は、「人間と動物の関係に着目する社会学は、今まさに重要なテーマだから、しっかり取り組んでみるといい」と言ってくださいました。その言葉をきっかけに、地域の人間関係に注目するアプローチと、人間と動物の関係を考えるアプローチを融合させることに関心を持つようになりました。

————外来種として駆除されるアカミミガメ、廃校のプールで息絶えるオオサンショウウオ、アニマルシェルターで最期を迎える保護猫、コレクションのために採取される昆虫、加害者として殺されるヤマビル。『生き物の死なせ方』では、私たちが日常生活で接することのない、さまざまな生き物が死を迎える現場の様子が克明に記されています。取材はどのように進められたのでしょうか。

渡邉:例えば、社会学のフィールドワークの教科書には「事前の計画を大事にしなさい」と書かれていると思います。しかし、今回の調査対象は、基本的に今まで取り上げられてこなかったものばかりでした。もちろん、事前に情報を集めたり、生物学的な論文を読み漁ったりといった準備は入念に行いましたが、そもそも計画を立てたくても立てられない状況でした。10年ほど前に調査を始めた当初は、まだ「死や死体にフォーカスしたい」という考えを明確に言語化できていませんでした。取材先には、「どのように生かし、どのように死んでいくのかを知りたいので、いろいろ教えてください」と依頼していたと思います。周囲の人からは、「死という開示しづらいテーマなのに、よく取材させてもらえたね」と言われましたが、基本的にどの取材先の方も「なんでも見てください、なんでも聞いてください」と、非常に協力的な姿勢で応じてくださいました。

————『生き物の死なせ方』というタイトルについて伺います。なぜ「生かし方」ではなく、「死なせ方」に着目されたのでしょうか。

渡邉:近年では、SDGsの観点などから「生き物との共生・共存」という言葉を目にする機会が増えました。しかし私は、人間以外の生き物といかに共生するかを語り合う前に、私たちがそれらをどのように死なせているのかを知る必要があると思いました。共生が先にあって、その中に生き物の死が含まれているという考え方ではなく、まず死が先にあるところから考えてみたかった。留学先のチェコはナチズムとスターリニズムの両方を経験した国です。チェコ国内の収容所や隣国ポーランドのアウシュビッツなどの強制収容所にも足を運びましたし、生活と死との距離が遠くない場所で2年間過ごしたことも、私自身に何らかの影響を与えているのかもしれません。

正解を与えずにモヤモヤさせるのが狙い

————「生き物の死」というテーマを掘り下げて執筆するにあたり、ご自身の中で何かルールを設けられましたか?

渡邉:一つ目のルールは、人間の話と関連づけないことです。文学や思想研究の世界では、生き物が殺される現場と人間の強制収容所を重ねて議論されることがしばしばありますが、本書ではそれを避けたいと思いました。確かに、共通する点はあるのかもしれませんが、共通点と同質性は異なります。そのことをはっきり言うことが重要だと思いました。

二つ目は、旗幟鮮明な書き方を避けることです。「これが正解です」と断言するのではなく、「この条件が満たされたとするなら、こうした可能性があるかもしれない」といった条件法をちりばめて、読者がモヤモヤするような書き方を意識しました。

————確かに、読んでいる間も、読み終えた後も、モヤモヤしました!しかし、なぜ正解を示さないことが重要だったのでしょうか。

渡邉:最近の学生は、すぐに正解を求めたがる傾向があります。私のゼミに入ったばかりの3回生に「発表をしなさい」と言うと、彼・彼女らは資料を作って「これでいいですか」と、正解かどうかを尋ねてきます。しかし、正解というのは誰かに聞くものではなく、自分で手繰り寄せるものです。データや論拠に基づいて、自分で正解を探していくという作業が必要なのだと理解するまで、半年ほどかかりますね。これは学生自身の問題ではなく、彼・彼女らは大人の真似をしているだけなのだと思います。ショートカットされたフレーズにすぐ乗っかってしまう、そんな時代の趨勢に対して、大学人として抵抗したいという思いがありました。じっくり思考を重ね、あえてモヤモヤしてほしい。それが本書の狙いでした。とはいえ、執筆が一区切りした段階で自分の中に湧いてきたのも、「結局のところ、よくわからない」。一番モヤモヤしたのは、私自身でしたね。

昆虫標本の一例(画像:Adobe Stock)

未知なる死から社会の一面を知る

————第1章のアカミミガメから第5章のヤマビルまで、気になる生き物の章から読み進めても、後半の理論編からスタートしても良いそうですね。

渡邉:編集者とは、理論編を前に持ってくるか後ろにするかで、かなり議論を重ねました。実際、社会学や人類学の分野の方は理論編から読み始める方が多いそうで、それ以外の方は、生き物に感情移入しながら章を追って読んでくださっているようです。私としては、どのような読み方をしていただいても問題はありません。本当に、人によって読みやすい章が異なるようです。「昆虫の章が非常に面白かった」と言ってくださる方もいれば、「なぜ昆虫の話を入れたのか」と反対意見をくださる方もいます。ありがたいことに、社会学、芸術、生態学など、さまざまな分野の方が読んでくださり、いろいろな感想を寄せていただいています。読む立場によって注目するポイントも異なりますし、要約の仕方もまるで違うのが非常に興味深いです。100人いれば100通りのモヤモヤが生まれる、そんな本になればいいなと思います。

————「死なせ方」を知ることは、生き物を死なせることに葛藤やストレスを抱えながら働いている現場の人の存在に目を向けるきっかけになりました。

現代社会には、死体から人間にとって利益となるものを常に引き出さなければならないという風潮があります。私は、これは必ずしも正しい考え方だと思ってはいません。例えば、死んだ生き物を食べ物にしないともったいないとか、有効活用できていないのは現場の人たちの努力不足だと言われてしまう。しかし、刺身やジビエ料理などの食べ物に変換したからといって、死なせたという事実が帳消しになるわけではありません。人間にとって「必要なもの」として死を回収してしまうこと自体にもっと考えるべき問題があるような気がします。

生き物を死なせているという感覚が得にくい社会で、私たちは生きています。除菌化された社会で、生き物と触れ合う経験がそもそも少なくなっていると同時に、情報の中で生き物の死より先に共生が語られてしまう。もちろん共生することは大事ですが、共生というカバーだけで人間と動物の関係が語られていないか、問題意識を持つことが大切だと考えます。