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「摂取不捨」の精神を受け継ぎ
歩み続けた「龍大福祉」の歴史【前編】

常に自分を省みて、他(自然・社会・人)の幸せや利益を追求することができれば、やがて社会は良い方向へと変化していく。
「自省利他」を行動哲学に掲げる龍谷大学は、人間性豊かで深い学識と教養を備え、社会の発展向上に貢献する人材を養成することを目的におく教育機関です。現在は、9 学部(※)、1短期大学部、10研究科を有する総合大学ですが、幅広い教育領域の中でも社会福祉教育の歴史は古く、大正時代に社会学講座を開設したところまで遡ります。龍谷大学の歴史、そして「摂取不捨」の精神と歩んだ社会福祉教育の歴史を、前編・後編に分けて紹介します。
※2023年4月心理学部設置予定

僧侶の学び舎がすべての起点

龍谷大学の起源は江戸時代の1639(寛永16)年、西本願寺境内で創設された学寮です。僧侶をめざす若者たちが浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の教えなどを学ぶ60人収容の学寮。その学寮があった場所に建っているのが、明治初期の建築文化を今に伝える大宮キャンパスです。大教校の本館、両側を取り囲むように建つ南黌・北黌はいずれも国の重要文化財に指定されていて、今も教室などに使用されています。

学寮当初から受け継がれてきた浄土真宗の精神こそ、龍谷大学の建学の精神です。浄土真宗の精神とは「生きとしいけるもの全てを、迷いから悟りへ転換させたい」という阿弥陀仏の誓願に他なりません。学寮創設から約170年が過ぎた1807年には、集団指導体制に変わり学寮から学林へ。そして江戸幕府の終焉につながる大政奉還の1867年から改革が始まり、1876(明治9)年に学林は大教校へと改称。1879年、西本願寺境内に本館、南黌・北黌などが並ぶ大教校が完成しました。

大教校は1900(明治33)年に仏教専門大学となりました。このころ、西本願寺は受刑者らの宗教的要求や心の安定を図ったり、規範意識を付けさせたりする、教誨活動に力を入れていました。その背景のひとつが、キリスト教の布教活動に対する危機感です。1858年に締結された日米修好通商条約によって、米国人の宗教の自由、居留地内の教会設立が認められ、キリスト教は幼稚園や学校などを通じて布教、教誨活動にも熱心でした。そのような流れの中、西本願寺もまた教誨活動に力を入れます。1904年には仏教大学(現在の佛教大学とは無関係)に校名を変更し、教育過程に監獄法と感化法が講義科目として組み込まれました。それは「生きとしいけるもの全てを、迷いから悟りへ」という建学の精神の表れでもあったのです。

1920年頃の大宮キャンパス

大学名を「龍谷大学」に改称

1922(大正11)年、仏教大学から、西本願寺の山号である「豅(おおたに)」から龍谷大学と校名を変更。学年制ではなく講座制を採用し、学科は仏教科のみのスタート、社会学講座として社会学原論と社会政策の2科目を開講しました。担当したのは、社会事業学理論家の海野幸徳(うんのゆきのり)でした。産業の振興が優先されて生活困窮者が増加した時代、そして福祉の概念が「慈悲事業」、「感化救済」から「社会事業」へと切り替わる時代。海野は著作活動と研究活動に邁進、大学入りした翌年には海野社会事業研究所を創設。児童保護や婦人運動、老年看保護、医療問題などを幅広く研究し、その成果を発表しました。

初の女子学生

社会問題に対する関心が向上

龍谷大学に福祉を冠した授業(文学部社会学科社会福祉学専攻)ができたのは、1968(昭和43)年、短期大学部に社会福祉科ができたのは1962(昭和37)年。しかし、龍谷大学における福祉の起点は、社会事業を広く研究した海野を招き開学した1922年だと言っても過言ではありません。
その年、社会学専攻の卒業生11人の卒業論文のテーマの中には、『不良部落の研究』、『結婚論』、『特殊部落の研究』などが見える。社会問題への関心の高さがうかがえました。

1931(昭和6)年3月には、初の女子学生が卒業。親鸞聖人の誕生日を祝う降臨祭では仮装行列が行われ、大学は賑やかだった。しかし、戦時色が濃くなるにつれて一変。軍事教練が行われるようになっていきます。1945(昭和20)年夏の終戦から、時代は大きく変わっていきます。1949年に新制大学となった龍谷大学は文学部を開設。単科大学としてスタートを切り、翌1950年に短期大学部に仏教科を開設。戦後が動き出しました。

戦後の復興期は社会病理学に着目

龍谷大学では戦後の復興期、高度経済成長期に、非行や自殺などを扱う社会病理学に光が当たりました。短期大学部長などを務めた中垣昌美の著書『社会福祉学の基礎』によると、1948年から1988年度までの卒業論文1652本のうち、153本が社会病理学のテーマで、社会学をテーマにした論文666本をつぐ多さだったそうです。なぜ、社会病理学だったのか。社会事業の研究を続け、龍谷大学における社会福祉の基盤を築いた海野幸徳らの「社会の病変は、福祉課題に直結する」という精神の投影があったからに違いありません。

そしてもう一つ、建学の精神の中枢にある阿弥陀仏の誓願「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」、「すべての生きとし生けるものを決して見捨てない」とも深く結びつきます。「摂取不捨」を実践すれば、社会病理を改善できる。そう考えた学生が社会病理学を選び研究したのです。

深草キャンパス誕生時

短期大学部に社会福祉科を設置

1960年、京都市伏見区にあった米軍駐留地跡に深草キャンパスが誕生。翌年1961年には経済学部経済学科を、1962年には短期大学部に社会福祉科を設けました。今に通じる「福祉の学び舎」の開門と呼べる出来事なのですが、専任教員は、後に短期大学部長となる杉本一義のみでした。杉本は当時、福祉施設で70人のこどもたちと寝食をともにし、その一方で米国の社会福祉などを研究していました。その活動に白羽の矢が立ち、龍谷大学に招かれました。

社会福祉科で杉本が見たのは、受験者の定員割れ。初年度の1962年度は入学定員40人に対して、受験者はわずか二十数人でした。杉本は、何の資格が取れないことが定員割れの原因と見て、保育士資格を取得できる国の許可を得ようと決意。東京に出張し、厚生省(現在の厚生労働省)に4回、文部省(現在の文部科学省)に2回、足を運んでようやく内諾を得たそうです。2年間の苦労が実り、開講4年目の65年度から保育士資格の取得が認められました。
その後、社会福祉科の受験生は急増。定員40人に対し、800人を超えることもありました。最初の2年は、杉本の研究室もはありませんでしたが、1964年に大宮キャンパスの北黌101教室が、研究室に充てられました。

「龍大福祉」の基盤と伝統が確立

社会福祉科の科目は、社会事業概論や児童福祉論、精神衛生など多岐にわたり、担当したのは文学部の教員や他大学の教員らでした。

その中のひとりが、大阪社会事業短期大学の孝橋正一です。戦後の社会福祉理論を牽引した泰斗のひとりです。1968年、文学部に社会学科が開設されて社会学と社会福祉学の専攻が設けられた。短期大学部に遅れること6年、4年制大学にも福祉の名のついた専攻課程ができたのです。

この時、孝橋は教授として招かれ、大阪社会事業短期大学から移籍。孝橋の在籍期間は5年ほどだったが、学会に大きな足跡を残しました。

孝橋は、33歳年上の大先輩である海野との面識はありませんが、学問としての社会福祉にこだわる姿には、共通点があります。海野と孝橋の2人によって、「龍大福祉」の基盤と伝統が確たるものになったのです。