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差別やいじめをなくすには〜「自分自身を大事にする」から始まる人権教育

龍谷大学人権問題研究委員会ではさまざまな分野の研究者による「人権問題研究プロジェクト」を実施しています。2022年度のプロジェクトは、「『自分自身を大事にする』人権教育の開発」。研究代表者は、心理学部で臨床心理学と発達心理学を研究し、また臨床心理士・公認心理師として実践活動もされている小正 浩徳  准教授です。

今回は、心理学における人権教育の面から、差別やいじめをなくすために考えていることを小正先生にお話しいただきました。

仏教に根ざした実践と心理学の共通点は、自らに気づき他者を助けようとする「自省利他」

龍谷大学は、建学の精神をよりどころとする実践のあり方として「自省利他」掲げています。「自省」は「自らを省みる」ということ、「利他」は「他者を利する」ことです。この、「自省利他」という行動哲学は、人の心を支援する心理学の立場にも生かすことができるのではないかと私は考えています。

「利他」という言葉を私は他者への思いやり、つまりは他者の立場にたっていろいろと思いを馳せることという意味として理解しています。これは「支援」につながりますよね。「自省」は、仏教においては自らの「自己中心性」に気づくことという意味だそうです。これを私は、心理学との接点として「自分の中の奥深くにある心の在りように気づくこと」と理解しています。心理学的支援の一つにカウンセリングというものがあります。これは自分自身が抱えている日常生活上の悩みをカウンセラーに話す中で、自分がかぶっている様々な仮面を一つ一つ外していくことを通して、自分自身について気づきを得、悩みを解決していこうというものです。自分自身に気づいていく、というところは、自省利他の「自省」とよく似ていると思いませんか。

もちろん、仏教と心理学は違うものです。いまお話ししたように、心理学的支援においては「私が抱えている日常生活上の悩みを解決する」ことが目的です。対して、仏教は生きとし生けるもの全ての苦しみの解決の教えだと私は捉えています。心理学で扱う個人的な悩みの解決と、生きとし生けるものの苦しみの解決というのは、やはり違うものなのでしょう。しかし、根底に仏教の考え方を持って、心理学的な支援などに取り組んでいくというのが大切なのではないでしょうか。

“気が合わない人”を「違いはあるけれど尊い存在」と考えてみては

私たちが日常生活を送る中で、様々な悩み事はありますよね。人と一緒に生活していくと生じる人間関係の難しさもその一つです。そしてこの難しさの中にいじめや差別の問題もあります。

学校や社会においては、「差別やいじめをなくそう」と言われ続けています。誰もが、いじめや差別はいけないこととわかっているはずです。しかし皆わかっているのにも関わらず、いじめや差別はなくなりません。私たちはそれこそ親や教師から「いじめや差別はいけないこと」として教わってきたはずです。それでもなかなかなくならない。本当に難しい問題ですよね。そこで、「差別やいじめをやめよう」と教えるだけでなく、別の方法もあってよいのではないかと思うのです。私たちはともすれば差別やいじめに向かってしまうようなこころを持っているのだろう、ということを前提にし、そのこころの動きに対して「やめるべき」というストップをかけるのではなく、そうしたこころの動きを認めたうえで、発生したとしても自分のなかでおさめられるような予防方法を考えた方が良いのではないか、と考えるのです。

私たちは学校や家族、社会で集団生活をおこなっています。その中には仲良くなれる人もいれば、どうしても気が合わない人もいるはずです。周囲の人たち誰もが「信用できる人」「仲良くできる人」であればそこまで大きな悩みは生まれないかもしれません。しかし、現実ではなかなかそうはいきません。それに「信用できない、仲良くできない」と思う人を、無理に「信用しよう、仲良くしよう」とすると、こころの中で無理が生じます。だからといって、その人を拒絶しようとすることは、いじめや差別につながります。

では、どうしましょう。

まずは仲良くできないなあと思う気持ちそのものを認め、そして「私は私、その人はその人であり、違いがあって当然である」と思ってみる。このことを私は「同じ地に立つ」と捉えています。その人と自分には違いがあって、けれどもたまたま同じ時代を生きているという稀有な共通点があり、その意味で尊い存在である者同士と捉えてみるのです。そしてその上でできるのであれば、その人のありのままはどういう姿なのかと、自分にとって程よい距離で見てみるというのはいかがでしょうか?

自分に対する信頼感があれば、自分も他者も「ありのまま認める」ことができる

心理学を学んでみて私が考えるには、相手を認められるようになるのは「自分が自分を信用し、自分の存在を認めていること」が大切なのではないかということです。つまり、自分を「ありのままに認める」ということです。自分の中にある良い部分も、悪い部分も、それ以外の部分も、すべてが「私」であると認めるのです。そして、この「ありのままに認める」ことができるようになるためには、自分が周りの人たちから「ありのままに認められる」という経験をすることが必要だと考えています。このことは、実は私たちが生まれたときに経験をしています。私たちが赤ちゃんのとき、養育者は私たちに合わせてくれていました。おなかがすいたことやオムツが濡れている、暑い、寒い、遊んでほしいなど、ことばがまだ使えない私たちの気持ちを養育者は汲み取りながら育ててきてくれたのです。

この経験によって、私たちの中に「自分には助けてくれる存在がいる。大丈夫、自分は生きていける」と思う心が育ち、周りを信頼するこころと自分自身を信頼するこころが育ってくるのです。これを心理学では「基本的信頼感」といいます。ここには、良い子だから悪い子だからといった評価を超えて、自分を「ありのままに認められる」ことが行われているとお分かりいただけるのではないかと思います。

そして、こうして育てられた私たちが、今度は私たちの子どもを「ありのままに認めていく」。人を信頼し自分を信頼できるこころは、連鎖しているのです。「ありのままに認められる思いを持った」私が目の前にいる人を「ありのままに認め」、その人がまた別の誰かを「ありのままに認める」ことができ、さらにその人が…と巡りめぐって、私の周りの人から私が「ありのままに認められる」。この連鎖が「自分自身を大事にする」ということであり、「差別やいじめをやめるべき」だけではない「『自分自身を大事にする』人権教育」の発想の基の一つになっているのです。

「“私が”誰ひとり取り残さない」と自分ごととして捉える

「人権問題研究プロジェクト」でのテーマはこのようにして考えられました。自分自身を大切にすることが他者を認めることにつながり、いじめや差別に向けた人権教育に寄与できるのではないか。そこでまず、人を信頼するこころ、自分を信頼するこころと差別意識に関係があるかどうかを調査してみました。全国の20〜70代男女300人ずつ計600人に、インターネットを用いたアンケートをしたのです。この調査では「差別」について、特に「しょうがい者への差別意識」に絞り、人を信頼するこころと自分を信頼するこころを捉えるために、「自己への劣等感」や「肯定感」、「他者への信頼感」などに関する質問紙を用いました。

この調査データを分析したところ、「他者から受容されている、信頼されている」という感覚があると、しょうがい者に対する過少評価や共感理解の無さは少なくなりそうだということ。「自己への劣等感や不信感」また「他者を受容できない気持ち」は、しょうがい者に対する過少評価や共感理解の無さに、少なからず繋がることが分かりました。

これらの結果をまとめ、「『自分自身を大事にする』人権教育」の在り方について、考えられたことを皆さんにお伝えするべく、共同研究者である心理学部・武田俊信教授とともに研究レポートの作成を進めています。

SDGsでは「誰ひとり取り残さない、持続可能な社会の実現」を目指しています。そこでみなさんには、「私が」他の人を取り残さない、と自分ごととして考えてほしいと願っています。その第一歩として「自分自身をまず大事にしてみる」ことを考えていただければありがたいです。

とかく人は自分の周りの人に対して「○○○な人」と良くも悪くも固定化されたラベルを貼りがちです。そのラベルを張った瞬間に私たちは思考を止めてしまいます。そうではなく、その人と自分との関係をどうしていきたいのか。今「同じ地に立っている」者同士「ありのまま」を認め、ともに生活していくために何ができるだろうか、と絶えず考える。自分の気持ちを大事にし、目の前の人の気持ちにも思いをめぐらす。そのような人がさらに増えてくれれば「誰一人取り残さない」ことにつながるはずと信じ、研究や実践を続けています。