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本土並みから「脱本土化」へ 復帰70年、変わる奄美

2003年、環境省と林野庁の検討会が白神山地と屋久島に続く世界自然候補地として知床、小笠原諸島とともにトカラ列島以南の南西諸島を選定しました。以後、人々の意識が変わります。同時に南海日日新聞の紙面も変わります。

それまでの紙面、特に1面や社会面は奄振事業(奄美群島振興開発事業)をはじめとする公共工事の採択、進捗状況やサトウキビの生産見込みなどの農業記事、大島紬、そして選挙が主でした。

自然遺産候補地となって以降、自然環境関係の記事が増え、1面や社会面のトップに位置付けられることが多くなりました。2023年は奄美群島の日本(本土)復帰70周年の節目にあたります。環境問題に関する人々の意識がどう変わっていったか。70年代から今日までの南海日日新聞をめくりながら考えてみます。

島尾敏雄は早くから「本土化」に気がついていた

奄美は1953年に日本に復帰します。翌年から奄美群島復興事業が始まり、島々は近代化への道を突き進みます。

奄美に暮らした作家の島尾敏雄(1917~86年)は早い時期に「本土化」を予見しています。島尾は戦時中、加計呂麻島(かけろまじま)で過ごしました。島尾は終戦を迎えるまでの10カ月間、奄美大島の隣にある加計呂麻島に海軍の特攻艇部隊・震洋隊(しんようたい)の隊長として駐屯します。そこで見た風景は「まるで古代さながら奥深い静けさに覆われていた」と言っています。

島尾敏=「新潮日本文学アルバム 島尾敏雄」(新潮社・1995年)より

 

島尾は終戦後の1955年、再び奄美に戻ってきます。9年後の1964年、「九年目の島の春」(昭和39年)にこんなことを書いています。

「今私の目のまえにあるのは、破壊と建設の交錯した騒々しい建設現場のような殺伐な風景だ。あるいはそれが近代というものかもしれないが、まるで目の前で歴史年表のページを急いでめくられているみたいに、奄美は中世を素通りしつつ、近代の坂道をせきたてられているふうだ」

「本土の流行が風俗を平板にし、老人だけがかろうじてつややかな島の生活文化を支えている。これは私の眼鏡がさかさまなのかもしれない。復興措置法は奄美の生活水準を高め、人々をよりいわゆる福祉のより多い状態に導いたはずだ。年ごとに奄美は文明の恩沢をこうむることになっていくことにまちがいない」

そしてこう続きます。

「ただ、それなのになお、私の倒錯をふりはらうことはできないのだ」

奄振評価

奄振は奄美群島を対象にした高率の国庫補助事業です。正確には奄美群島振興開発事業といいます。「生活水準を戦前の本土並みに引き上げる」ことを理念に復帰の翌年の1954年に始まりました。時限立法でありながら「振興」「振興開発」と名称を変えながら延長され、間もなく70年になろうとしています。累計は何と2兆6000億円。

奄振は基本的には公共事業の塊ですから、インフラは整備されたものの、いろいろな弊害を引き起こしました。

海岸はコンクリートで埋められ、遊漁船が数隻だけの漁港や避難港が造られたり、基盤整備に伴い、赤土流出が問題視されたりしました。公共事業が基幹産業化し、自治体の財政が悪化するといった事態も引き起こしました。人口減少には一向に歯止めがかかりません。奄振評価でよく「インフラは整備されたものの」と言われるゆえんです。前回の延長(2019年度)から奄振交付金事業が導入され、航空運賃や農水産物の輸送コスト軽減にもつながっています。弾力性も出てきました。

奄美は「スぺクタクル」

2003年以前についても環境や自然についてもインパクトのある出来事がありました1974年2月15日、奄美群島国定公園が誕生します。対象区域は陸域、海域合わせて3万2885ヘクタール。奄美14市町村(当時)にまたがりました。同年3月30日、名瀬市で行われた記念式典で金丸三郎知事は「念願の指定実現を群島民とともに喜び、感謝する。貴重な自然を保護しながら、開発をどう進めるか合わせて考えるのが課題だ」と述べました。

沖縄は復帰後、1975~76年の沖縄国際海洋博を機に、観光産業が急成長します。沖縄の本土復帰(72年)前、奄美は「最果てブーム」に乗って観光が一大産業に成長しますが、航空運賃の高さも災いして徐々に低迷していくことになります。

1984年10月、世界が奄美の自然に注目します。WWF(世界野生生物基金。現在は世界自然保護基金)総裁で、イギリスのエリザベス女王の夫、エジンバラ公フィリップ殿下が10月14、15日の両日、奄美大島に来島しました。エジンバラ公は夜の山に出掛けてアマミノクロウサギも観察しました。「奄美の自然はスペクタクル(壮観)」と絶賛しました。その一方で、「保護されているところが少ない。伐採、狩猟に利用されている」と自然保護の在り方に疑問を呈しました。

保護と開発のせめぎあい

国定公園に指定され、世界が認めた奄美の自然ですが、90年代に入ると、環境問題が大きくクローズアップされます。その一つがゴルフ場問題。バブル崩壊後、リゾート開発ブームが起きます。奄美大島では奄美カントリークラブに続く第2、第3のゴルフ場を整備しようという計画が奄美大島の数カ所に持ち上がります。この建設計画をめぐって推進派と自然保護団体が対立します。

推進派は「クロウサギは百害あって一理なし」「自然で飯が食えるか」と猛攻撃。保護団体は「先行き不透明な開発に夢を託すのは危険」「ゴルフ場は山の中の原発」と反発しました。建設予定地でクロウサギの糞が見つかったこともあり、対立が激化します。クロウサギをはじめ野生動物を原告にした自然の権利訴訟も紙面をにぎわすことになりました。

混迷を深めたゴルフ場建設問題ですが、リゾートブームが去ると同時に、建設計画は立ち消えになってしまいました。

自然遺産候補に 島民の意識が変わる

2003年5月26日、環境省と林野庁は「世界自然遺産候補地に関する検討会」を開き、自然遺産の候補地として奄美群島を含む琉球諸島(鹿児島県・沖縄県)、小笠原諸島(東京都)、知床(北海道)を選びます。政府は早ければユネスコに04年の2月までに推薦リストの提出を目指す、と報道されました。ここから紙面が激変します。自然保護や奄美の希少種に関する記事が増えます。1992年に登録された屋久島は観光客が急増しました。それを目の当たりにしていた観光業界も色めきたちました。

知床は2005年、小笠原は11年に登録されましたが、奄美・沖縄は「保護担保措置が不十分」との理由で見送られました。しかし、課題克服のための取り組みは続き、17年に奄美群島国立公園が誕生し、21年7月、念願の自然遺産登録が実現。自然遺産登録によって奄美の生物多様性が広く認識されるようになり、保護のために取り組みも逐一報道されるようになったのです。

自然遺産登録決定を伝える紙面=2021年7月27日(著作物の利用については許諾済み)

「脱本土化」へ

島の自然の素晴らしさを世界(ユネスコ)が認め、私たちに教えてくれました。奄美は自然と人の距離が近く、そしてもろいことが特徴です。「世界自然遺産にふわさしい島」であり続けるために、何をすべきか考え続けなくてはいけないと思います。

利便性の追求はこれからも続き、奄美を訪れる観光客も増え続けるでしょう。しかし、それは島のキャパシティーや身の丈にあったものではなくてはならないし、「奄美らしい」ものでなくてはならないと考えます。台風常襲地帯の奄美は停電に悩まされています。電線の地下埋設(無電柱化)、サンゴ礁の「白い道」の復元などを考えてみてはどうでしょう。本土並み、本土化から「脱本土化」することで島尾が感じた「倒錯」を振り払うことにつながるのではないかと考えています。

大型クルーズ船が寄港する名瀬港観光船バース

 

文/久岡 学・元南海日日新聞社編集局長

1985年、南海日日新聞社入社。2018年4月~21年3月、編集局長。現在は嘱託で文化面の編集業務に当たる。主な著書(共著)は「田舎の町村を消せ」(南方新社)、「奄美戦後史」(同)、「奄美学」(同)、「『沖縄問題』とは何か」(藤原出版)など。「宇検村誌」にも執筆。

▽参考文献 南海日日新聞、新編「琉球弧の視点から」(島尾敏雄・朝日文庫) 写真提供=南海日日新聞社