特筆すべきもう一つの住民運動は「米軍普天間飛行場、徳之島移設反対運動」です。
「MA-T計画」反対運動から約20年後、再び徳之島および奄美の島々を揺るがす大問題が起きます。米軍の普天間飛行場(沖縄・宜野湾市)の徳之島移設計画が浮上したのです。
朝日新聞が「徳之島に移転計画」と報道したのは2010年1月27日。翌日、報道各社も後追いしました。報道内容は次の通りです。「普天間飛行場移設問題で徳之島が移設候補地に挙がり、島内3町長(徳之島・天城・伊仙)が政府高官との会談を要請されたいたことがわかった。移設先をめぐっては政府方針だった沖縄県名護市辺野古案を含めて国内40カ所以上が取りざたされていたが、奄美関係個所が浮上したのは初めて」
当時は民主党を中心とした連立政権でした。報道後、前年に民主党関係者が来島し、3町役場を訪問。年明け後には民主党の衆議院議員と3町長が懇談。3町長は「受け入れ反対」を明言していたこともわかりました。
徳之島に飛び火
徳之島への移設案は沖縄の問題が飛び火する形で浮上しました。1995年、普天間飛行場に所属する米兵による少女暴行事件が起きました。基地の撤去を求める県民世論が沸騰し、日米両国は事件の翌年(1996年)、普天間飛行場の全面返還に合意します。米軍は代替地を要求。政府は辺野古を候補地として定め、移設準備を始めました。ところが、2009年の総選挙で民主党政権が誕生し、状況は一変します。鳩山由紀夫代表は選挙期間中、普天間飛行場を「最低でも県外」と訴え、沖縄県民の支持を得ました。新たな移設先を求める中で、徳之島案が出てきたのです。
原発やごみ処理施設といったいわゆる「迷惑施設」を誘致、整備する場合、推進する側は地元に賛成派を組織し、ある程度、地ならしした上で計画を発表、推進するのが常です。過疎や財政難にあえぐ自治体を狙い撃ちするような格好で立地計画を進めていくのです。徳之島にしても、少数ですが賛成派はいました。民主党政権の準備不足を割り引いても、徳之島の動きは素早かったのです。
反対運動に火がつく
反対運動は報道が出た2010年1月27日、その日のうちに始まりました。「徳之島の自然と平和を考える会」(椛山幸栄会長)は「米軍普天間飛行場移設に反対するアピール」を発表し、反対集会を開催しました。考える会は以後、反対運動の中核を担い、3町の行政や奄美の他市町村・団体、出身者を巻き込んで運動を盛り上げていきます。
自然と平和を考える会は集会に続いて2月2日には3町長に反対要望書を提出。これを受けて3町長は地元選出の徳田毅・衆議院議員(鹿児島2区・自民)に反対要望書を託します。徳田氏は平野博文官房長官に要望書を提出しました。島民は移設反対を訴える看板・横断幕を設置し始めました。これらは見る見るうちに増え、島内の至る所に見られるようになりました。MA-T計画反対運動を彷彿させるような動きが広がっていきました。
一万人集会
最初の大規模集会が3月28日、天城町総合運動公園で開催されました。「普天間基地徳之島移設断固反対」と銘打ち、島内外から約4,200人が集結しました。民主党政権下とあって自民党系の国会議員も参加。現在の東京都知事で小池百合子元防衛大臣が吠えます。「鳩山首相は鳩なく、サギ」。反民主の決起集会的な一面もありました。同じ日、奄美市名瀬でも緊急市民集会がありました。奄美にとどまらず、鹿児島や沖縄、東京でも反対運動が行われ、連帯の輪は確実に広がっていきました。
地元の意向とは裏腹に政府は米海兵隊ヘリ部隊の徳之島移設に向けてアクセルを踏みます。4月13日、鳩山首相はオバマ大統領と非公式に会談し、普天間基地移設問題の5月末決着を約束しました。
ここから反対運動はさらに加速します。徳之島3町は5月にも天城町の集会を上回る「一万人集会」を計画していますが、政府の動向を踏まえ、4月18日に前倒しで開催することにしました。徳之島の人口は2万7,167人(2005年国勢調査)です。「本当に一万人も集まるのか?」と疑問視する声もありましたが、徳之島町亀津漁港で行われた「米軍普天間飛行場の徳之島移設反対を日米両政府に示す一万人集会」は予想を上回る1万5,000人(主催者発表)が集まりました。会場は「移設反対」のプラカードを掲げた人々の熱気であふれました。
集会は「『長寿・子宝、癒やしの島に米軍基地はいらない』。今、政府に求められているのは普天間基地の無条件撤去、基地のない沖縄を目指す本腰の対応、平等の対米交渉です。私たちは徳之島への移設に断固反対します」との決議を満場一致で採択しました。
迷走する政権
「一万人集会」以後、政権の動きも慌ただしくなります。鳩山首相は4月28日、徳之島に大きな影響力を持つ徳田虎雄氏(医療法人徳洲会理事長・徳之島出身)を訪ねます。鳩山首相は普天間飛行場の航空部隊の一部、もしくは訓練の一部移転案を示し、協力を求めましたが、徳田氏は島民の意向を踏まえて「徳之島では無理がある」「問題を判断するのは徳之島の3町長」と回答。3町長は5月7日、官邸で鳩山首相と会談しました。鳩山首相は徳田氏に示したと同様の案を提示しましたが、3町長はこれを拒否しました。
徳之島移設は米軍も難色を示していました。「最低でも県外」と言っていた鳩山首相は「5月末決着」を断念せざるを得なくなり、再び辺野古に回帰していくことになります。政権はその後、日米首脳会議を経て5月28日、日米安全保障協議委員会(2プラス2)を経て日米共同声明を発表します。普天間基地の移設は辺野古と明記し、沖縄の負担軽減策として訓練の一部移転先に徳之島を盛り込んだのです。
命のたすきリレー
徳之島移設案がほぼなくなったとみられた8月7日、8日の両日、徳之島で「命のたすきリレー」(徳之島の自然と平和を考える会主催)が行われました。反対運動の記憶を残すためです。参加者は約3,000人。発着点は伊仙町の泉芳朗(いずみ・ほうろう)銅像前。泉は復帰運動の父と呼ばれる人物です。前編のMA―T計画も普天間基地移設反対運動も復帰運動をモデルにしていましたから、泉の銅像前を発着点にしたのです。参加者は幼児から80代のお年寄りと幅広く、「闘牛の島」らしく牛を引いて歩いた人もいました。人々は島内81kmを60区間に分けてたすきをつなぎました。
普天間基地移設反対運動について2021年、「徳之島の自然と平和を考える会」の椛山会長は次のように話しました。
「徳之島移設をはねのけられたのはスピード感を持って島民の意見をまとめ、『ノー』を突きつけられたことが大きい」「私がMA-T計画反対で先輩たちの活動に感銘を受けたように、移設反対に賛同してくれた若い世代があの体験から何かを学んでくれたらと思う」
椛山会長は不安も口にしています。「当時は民主党政権ということもあり、多くの政治家をこちらに取り込むことができた。もしこれが自民党政権でしっかりと根回ししたうえで徳之島を移設候補地に挙げていたり、米軍ではなく自衛隊だったりしたら、反対運動ははるかに苦戦しただろう。今の辺野古の状況をみれば、そう考えられる」
記憶と体験の継承を
岸田政権は2022年、原発の再稼働推進、運転延長に大きく舵を切りました。迷惑施設は離島や過疎地を狙っています。ロシアのウクライナ侵攻、「台湾有事」の危機感もあって南西諸島の防衛力増強を求める声が強まっています。2019年には奄美大島に陸上自衛隊奄美駐屯地と瀬戸内分屯地が開設し、ミサイル部隊が配置されました。徳之島にも自衛隊誘致を求める声があります。自衛隊と米軍との合同訓練も頻繁に行われるようになりました。この3月には徳之島と喜界島で陸上自衛隊と米海兵隊の共同訓練「アイアン・フィスト(鉄拳)」が行われました。
核も米軍基地も拒否した徳之島、奄美の島々に、来るはずのなかった「もう一つの未来」の足音が聞こえるような気がします。復帰運動と、それに続く二つの住民運動は「抵抗の記憶と島を守り抜いた体験」と言っても過言ではありません。島が曲がり角に立ついまこそ、これらの住民運動を検証し、継承していく必要があるのではないでしょうか。
==============
文/久岡 学・元南海日日新聞社編集局長
1985年、南海日日新聞社入社。2018年4月~21年3月、編集局長。現在は嘱託で文化面の編集業務に当たる。主な著書(共著)は「田舎の町村を消せ」(南方新社)、「奄美戦後史」(同)、「奄美学」(同)、「『沖縄問題』とは何か」(藤原出版)など。「宇検村誌」にも執筆。
▽参考文献 「米軍普天間飛行場移設|徳之島の闘い」(二〇一〇年・南海日日新聞社)、戦後日本住民運動資料集成9・奄美群島住民運動資料―第1巻南海日日新聞資料(二〇一五年・すいれん舎)、同第3巻・徳之島資料、第6巻・奄美大島資料、第7巻あしゃげ(二〇一五年・すいれん舎)、同別冊 解題・資料(二〇一五年・すいれん舎)、「琉球処分」から基地問題まで|「沖縄問題とは何か」(二〇一一年・藤原書店)、「奄美 日本を求め、ヤマトに抗う島―復帰後奄美の住民運動|」(斎藤憲・樫本喜一著、二〇一九年・南方新社)