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奄美に見る「持続可能な社会」① 奄美に行ってみよう

2014年7月、LCCが奄美大島―成田路線を開設して以降、「奄美」を訪れる人が年々増えています。当初は「どんな所か知らないけれど、低価格で行ける南の島へ行ってみよう」と興味本位の観光客が多かったけれど、認知度が上がるにつれて「どの島で何をしたい」と明確な目的を持った来島者が増えています。気軽に宿泊できるゲストハウスも増えてきました。

皆さんは奄美がどこにあるか知っていますか? 鹿児島県にあります。県本土から種子・屋久を越えて沖縄に向かう380km~550kmの海上(東シナ海)にあります。奄美大島と加計呂麻島(かけろまじま)、請島(うけじま)、与路島(よろじま)、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の八つの有人島で構成されているのが奄美諸島です。行政的には奄美群島と呼ばれています。
奄美大島と徳之島は2021年7月、沖縄北部(やんばる)、西表島と共に世界自然遺産登録にされました。2017年に誕生した「奄美群島国立公園」は八つの島々がすべて含まれています。アマミノクロウサギをはじめ希少な動植物が生息する生物多様性が世界的に評価されました。自然と共生する人々の暮らしは国内初の環境文化型国立公園となって結実したのです。

「ありがたさまりょーた」「おぼらだれん」

奄美の島々の魅力は一言でいえば多様性にあります。島によって地形も異なるし、言葉(島口=方言)も違います。「ありがとう」は奄美大島では「ありがたさまりょーた」ですが、喜界島では「うふくんでーた」、徳之島では「おぼらだれん」、沖永良部島では「みへでろ」、与論島では「とーとぅがなし」と言います。しかも、同じ島でも集落によって微妙に言い回しが異なります。奄美大島の場合、北と南ではイントネーションが全く違います。
不思議なことに「さようなら」という言葉はありません。奄美には大学はありません。高校を卒業するとほとんどの生徒は島を出ていきます。転勤族も多く来ます。出会いと別れを繰り返す島の生活にあっても、別れの言葉はないのです。「また会いましょう」を意味する「また、いもーりよ」などと言います。再会を約束するのです。
ユネスコは2009年2月、島口(奄美語)を含む国内8言語・方言を「消滅の危機にある言語・方言」として発表しました。日常的に島口を使う場面は激減しており、保存・継承が課題となっています。

島唄と呼ばれる民謡があります。島口(方言)で歌います。これも「北」(奄美大島・喜界島・徳之島)と「南」(沖永良部島・与論島)では言葉はもちろん、音階が異なります。三味線(サンシン)は同じですが、奄美大島と喜界島、徳之島は竹のバチを使います。男性も裏声を駆使し、高音で哀感たっぷりのメロディーが心を打ちます。沖永良部島、与論島は牛の角で作ったバチを使います。琉球民謡と似て、どこか牧歌的で柔らかな歌声が特徴です。島唄にはコンクールもありますが、奄美大島の大会には沖永良部、与論島の唄者(歌い手)は出場しません。また、沖永良部の大会に奄美大島や徳之島の唄者が出ることもありません。歌が違うからです。民謡もまた多様性に満ちています。

奄美を描いた田中一村

田中一村(1908~77)という日本画家を知っていますか?
本名は孝。奄美大島北部に位置する奄美市笠利町には一村の作品を収蔵、展示する田中一村記念美術館があります。一村は栃木県出身。1914(大正3)年、一家で東京に移り住み、彫刻家の父の指導を受けて幼少から画才を発揮します。17歳のとき、東京美術大学(現在の東京藝術大学)に進学しますが、わずか2カ月で退学。独学で制作を続け、南画から独特の写実的な作風を作り上げていきます。38(昭和13)年からは千葉市で暮らし、47(昭和22)年、青龍社展に出品した「白い花」が入選しますが、なかなか中央画壇に認められません。
58(昭和33)年、50歳の一村は千葉の家を売り、彼を支え続けた姉とも別れ単身、奄美大島にやってきます。なぜ、奄美を最期の地に選んだのか。本当の理由は誰も知りません。一村は名瀬の大島紬工場で染色工として働き、おカネがたまったら絵を描く生活を送ります。一村は50半ばを過ぎていました。こんな手紙が残っています。「紬工場で5年間働きました。染色工は極めて低賃金です。「工場一の働き者と言われるほど働いて60万円貯金しました。そして去年、今年と、来年と3年間に90%を注ぎ込んで私のゑかきの一生の、最後の絵を描きつつある次第です。何の念(おも)い残すところがないまでに描くつもりです」。一村は奄美で描いた作品を東京で発表するつもりでした。
「奄美大島の強い日差しのもと輝く奄美の自然を、色鮮やかに大きく描いているのが一村の絵の特徴です」(田中一村美術館)

一村の作品は本土(東京・千葉時代)と奄美に渡ってからは画風がまるで違っています。美術評論家の石川翠さんはこう推測しました。「画家として描くのではない。撮影者のように自分を無にして、写り込んでくるものをそのまま写しとる。奄美の新鮮で生気あふれる自然は一村に変身の手を差し伸べてくれたに違いない」。一村が晩年になって制作した「不喰芋(くわずいも)と蘇鐵(そてつ)」という大作があります。不喰芋と蘇鐵の葉が大きく描かれ、遠くに水平線が見える。奄美の自然の奥深さが感じられる、と高い評価を受けました。一村がとても大切に作品の一つです。
一村の創作活動は19年に及びました。常にランニングシャツにパンツ一丁の姿でした。その風貌から周囲に奇異な目で見られることもありましたが、そのようなことは気にせず、創作活動に集中します。
奄美での創作活動が終わる日が来ます。晩年の一村は病気やけがが絶えませんでした。77(昭和52)年9月11日、夕食の準備中に倒れ、そのまま死去しました。死因は心不全。69歳でした。

一村は奄美で描いた絵を生前に発表することはできませんでしたが、死後7年後、NHKのテレビ番組「日曜美術館」が「黒潮の画譜~異端の画家 田中一村~」を放映すると、大きな反響を呼びました。全国各地で展覧会が開催され、画集や評伝の出版も相次ぎ、「孤高の天才画家」「日本のゴーギャン」として一躍、時の人となりました。
鹿児島県は2001(平成13)年、奄美市笠利町の奄美パーク内に田中一村記念美術館を開設しました。美術館は各地に残っている作品を集めました。その所蔵品の中から80点を選んで常設展(年4回展示替え)を開催しています。一村が最期を迎えた家屋は移築され、命日には有志が集い、一村忌が行われています。一村の作品は奄美の宝物になりました。

西郷を再生させた島

維新三傑の一人、西郷隆盛(1828~77)は奄美とも縁が深く、二度、5 年間配流されています。一度目は奄美大島。二度目は徳之島、沖永良部島。
安政の大獄が始まった1858年。近衛家から尊王攘夷派の僧・月照を保護するよう依頼を受けた西郷は各地を転々とした後、月照伴って薩摩に戻ります。島津斉彬の死後、保守的になっていた藩は西郷に月照を「日向(ひゅうが)送り」にするよう命じます。日向送りとは「国境で斬り捨てよ」との命令です。思い悩んだ西郷は同年11月16日、月照と共に錦江湾(鹿児島湾)に飛び込み、入水自殺を図ります。月照は命を落としますが、西郷は奇跡的に助かります。その後、藩は西郷に奄美大島で潜居を命じます。失意の中、奄美大島での生活が始まります。

59年1月、西郷は菊池源吾と名前を変えて奄美大島龍郷の龍家(りゅうけ)に身を寄せます。月照を死なせてしまった罪の意識、島津斉彬の側近として中央政界で活躍した数年前とのギャップもあり、西郷は失意の日々を過ごします。言葉も生活習慣も違う島民とは容易に打ち解けることができなかったのでしょう。「誠に毛唐人(言葉の通じない島民には)込(困)り入り候(そうろう)」との手紙を出し、転居を申し出ています。
しかし、島民と苦楽を共にする中で次第に心を開いていきます。龍家の親族の娘、愛加那(あいかな)を島妻に迎え、菊次郎と菊草(菊子)の二人の子どもに恵まれます。志學館大学教授で薩摩史研究の第一人者、原口泉氏は「愛加那と出会い夫となり、父となったことで西郷は人間性を回復した。島(奄美大島)を離れるまでの3 年間は西郷にとってもっとも幸福な時期だったかもしれない」と話しています。
井伊直弼が暗殺され、安政の大獄が終わると、薩摩藩の国父(藩主の父)の島津久光は西郷を呼び戻します。西郷は国事に対して久光と見解を異にし、ついに君命を破って単独行動を起してしまいます。これが久光の怒りを買い、徳之島、さらに沖永良部島に遠島処分となります。沖永良部では当初、野ざらし、雨ざらしの牢に入れられました。極限状態に置かれた西郷は日に日に弱っていきます。恰幅のよかった西郷は幽鬼のような形相に変わり、歩くことさえできなくなりました。薩摩から来た代官は見て見ぬ振り。

見るに見かねた与人(島役人のトップ)の土持政照(つちもち・まさてる)が救いの手を差し伸べます。土持は代官の許しを得て小さな家を新築してその中に牢をつくりました。野外の牢とは雲泥の差です。西郷は健康を回復し、島の青年と相撲を取るまでになりました。西郷と土持は水魚の交わりをするようになります。西郷の藩士として出発点は郡方書役助(こおりかたかきやくすけ)という農政畑でした。沖永良部は小さな島で飢饉がきたらひとたまりもありません。そこで西郷は土持に社倉制度を提案します。豊作の時に米を出し合って蓄え、不作の時に備えるというものです。後に奨学金にも活用されました。奄美大島時代はヤンチュと呼ばれた隷属的な債務下人の解放を訴え続けました。
2年間の沖永良部暮らしを経てついに西郷は許され、維新へと突き進んでいきます。

奄美は自然豊かで多様性に富んでいます。その風土は一村の作品を生み出し、人々との交流は西郷を再生させました。さまざまな「奄美」に触れることで「持続可能な社会」実現に向けたヒントが得られるかもしれません。ぜひ、あなたの目で確かめてみませんか。

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文/久岡 学・南海日日新聞元編集局長
1985年、南海日日新聞社入社。奄美の島々を取材し、2018年4月~21年3月、編集局長。現在は嘱託として文化面の編集業務に当たる。主な著書(共著)は「田舎の町村を消せ」(南方新社)、「奄美戦後史」(同)、「奄美学」(同)、「『沖縄問題』とは何か」(藤原書店)など。「宇検村誌」にも執筆。

▽参考文献
「博物館が語る 奄美の自然・歴史・文化」(奄美市立奄美博物館)、田中一村美術館HP、「孤高・異端の画家 田中一村の世界」(NHK出版)、2021年2月18日付南海日日新聞「千葉市美術館の田中一村展」(石川翠)、鹿児島県教育委員会編「続・郷土の先人『不屈の心』」より田中一村「奄美を描く」、「薩摩侵攻400年 未来への羅針盤」(琉球新報社)、「碑のある風景」(籾芳晴著・丸山学芸図書)